第2章 組織の歴史的発展
2-1 創設期(1965〜1970年代):実験と定着
第1期研修(1965〜1966年度)はオワザン地方のモン・ド・ランにあるOCCAJシャレーで行われた。1966〜1967年度はグレジヴォーダン地方のVVF(バカンス・ヴィラージュ・ファミーユ)施設へと移り、1967年11月の第3期からヴェルコールのオートランにある「オリンピック・ヴィラージュ」の施設を恒久拠点として確保した。
各期の研修生は15〜20名で、フランス全土から募集されたが、アルプス圏出身者が多数を占めた。参加条件は農業・農村系の職に就いているか、またはその家族であること、18歳以上50歳以下、そして観光活動が可能な地域に居住していることとされた。研修費用・宿泊費・さらに小遣い程度の生活費が補助される奨学金制度が整備され、経済的障壁を下げる工夫がなされていた。
1968年のグルノーブル冬季オリンピックは、AFRATにとって組織の存在意義を証明する絶好の機会となった。スキーを軸とした山岳ツーリズムの急拡大を受けて、農村住民がスキーインストラクター、宿泊施設管理者、飲食サービス従事者として活躍する道が開け、AFRATの研修プログラムへの需要が急増した。
| フランス国立視聴覚研究所(INA)の記録 1970年代初頭に制作されたテレビルポ「モンタニャールを救え」には、創設者ジャン・フォールのインタビューが収録されている。 「AFRATは、山岳農業の厳しい収益性の中でツーリズムが補完的収入をもたらしうることから、活動への転換を支援するために設立された」(ジャン・フォール談)。 INAの解説は「山岳農村住民がこの取り組みを先導したことは偶然ではない。彼らは歴史的に適応力に優れ、大衆観光がもたらした機会を巧みに活かした」と評価している。 |
2-2 発展期(1980〜2000年代):専門化と制度化
1985年の山岳法(Loi Montagne)制定は、AFRATの事業に新たな追い風をもたらした。この法律の起草責任者は創設者ジャン・フォール上院議員その人であり、法律に盛り込まれた山岳農業の多様化支援・観光振興策はAFRATの活動方針と完全に一致するものであった。法制度の整備により、職業訓練への公的資金投入が拡大し、AFRATの研修規模も飛躍的に拡大した。
この時期、研修内容は当初のスキー・農家民泊に加え、料理・ケータリング、宿泊施設管理、山岳ガイドへと多様化した。グルノーブル大学系の『アルプ地理学評論』(Revue de Géographie Alpine, 1968)がいち早くAFRATの活動を学術的に記録していたことも、組織の制度的な正統性を高める一因となった。
国際展開もこの時期に始まる。フランス農村で培った「観光活動への住民育成」のノウハウが、農村開発を模索する海外の国・地域に求められるようになり、AFRATはアフリカ(ブルキナファソ、セネガル)への専門家派遣を行うようになった。
2-3 転換期(2000〜2020年代):グローバル化と気候変動対応
2004年よりアルメニアでの農村観光開発支援を開始し、2009年にはフランスとアルメニアの地方公共団体による協力プラットフォームIRAPAの設立に参画した。2013年にはパレスチナの「ヘリテージ・トレイル」(全長330kmのハイキングルート)の整備支援を開始し、2018〜2020年にはEUのプロジェクト「My Heritage! My Identity!」のリーダー機関を務めた。
国内では、気候変動・エネルギー転換・食のサステナビリティという21世紀的課題に対応した研修コースの開発に着手した。「テロワール料理人」資格では持続可能な地場食材の活用を、「山岳コンピテンシー・パスポート」では気候変動下での新しい山岳職業の複合的習得を目指す。
2-4 創設者ジャン・フォールの逝去と組織の継続(2022〜)
2022年5月13日、AFRAT創設者でイゼール県選出の元上院議員ジャン・フォールが85歳で逝去した。彼は政界引退後も、自身が設立したAFRATの会長職を最後まで離さなかった。フォールの死後、ジット・ド・フランスのイゼール地区長を務めていたブリュノ・ベルナベが後継会長に選出された。
| 新体制のビジョン(ベルナベ会長) 「これは新たなスタートだ。創設者は逝ったが、世界は変わり続けており、我々もあらゆる面で適応しなければならない。」 「AFRATの三本柱(研修・テリトワール支援・宿泊)を強化し、財政基盤の安定化を最優先課題とする。」 ジット・ド・フランスとAFRATの歴史的な連携関係(多くの農家民泊経営者がAFRAT修了者)は新体制下でも継続。 |
